金澤翔子はダウン症も書家が職業の母と父が不妊後高齢出産のわが子を支えた話に感動!

金澤翔子

ダウン症という状態で生まれてきた子供は
かわいそうな存在であるというように
認識されたりしますが

そういう状態でありながらも
書家としての道を見事に突き進んでいったのが
金澤翔子さんになります。

とてつもないハンデを持ちながらも
自立している彼女の姿は
とても感動的ですね。

生年月日は1985年6月12日であり
出身地は東京都目黒区。

5歳であった1990年に書道を始めることになり
95年には10歳で全日本学生書道連盟展に「」を初出品するまでに
なりました。

日本学生書道文化連盟展に「」で銀賞を受賞、
2000年に同じところに「延命十句観音経」を出品して銀賞を受賞し
翌年には「舎利札」を出品して学生書道の最高位である金賞を受賞して

その才能は多くの人に認められることになりました。

2004年のときには芸能人の芸名のようなものである
書家としての号で「小蘭」という名前を取得することに
なりました。

翌年に「翔子 書の世界」というご自身の最初の個展を開き
その後は建長寺に2006年10月と2009年11月に「慈悲」、「風神雷神」
奉納、

2012年1月には福島県いわき市に常設館の「金澤翔子美術館」を開設して
館長となり
またNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を担当するなど
書家として華やかな経歴を積み上げていきました。

書道のエリート街道まっしぐらという感じがしますが
しかし彼女には普通の人とは違う
症状がありました。

生い立ち 家族

お母様の金澤泰子さんは翔子さんと同じ書家。
雅号は金澤蘭凰といいます。

書家であるお母様の影響もあって
5歳という幼いときに書道を習うという道を
進んだんですね。

泰子さんは職業が会社経営者である裕さん
結婚することになりますが

2人の間にはなかなか子宝に恵まれず
3度も流産を経験してしまうことになります。

しかし出産をあきらめることはできずに
不妊治療を受けての高齢出産を決断することになりました。

治療の甲斐もあって
42歳という年齢で翔子さんは生まれることになりました。

しかし高齢出産のための
副作用ともいえるべきものが翔子さんに。

生まれて間もないわが子を抱くことができない日々がつづき
他のおかあさんが赤ちゃんを抱いている姿をみて
疑問を持つことになりました。

3度の流産の後の出産ですから
いとしいわが子を自分で抱きたいという思いは
他のお母様方よりも強かったでしょう。

お母様が医師に問い詰めたところ
ダウン症」ということを
告げられてしまいました。

難病にかかった江戸家小猫さんについて

ダウン症の翔子さんは
知能がなくて一生寝たきりになるだろう

といったことを医師から話されることになります。

本当のダウン症はそういったことはありませんが
医師でもきちんとした認識ができていなかった
時代なのでしょう。

そしてさらに悪いことには
敗血症にかかってしまったのです。

この病気は
病原体が原因となって起こった
全身性炎症反応症候群という

多臓器不全状態の前段階としておこるものであり
亡くなる可能性の高いものです。

お父様は翔子さんを助けようとしたときに
ダウン症だから無理に助ける必要もないんじゃないかと
言われたなんて話もあります。

今でも偏見が強いダウン症ですが
当時はそれ以上だったのでしょう。

クリスチャンであった裕さんは
「主よ、私はあなたの挑戦を受け入れます」
といって自分の血液をつかい

見事に翔子さんの命を救うことに
成功しました。

ただ、
医者の重い言葉は
泰子さんを苦しめることになり

ゆりかごのなかで楽にしてあげよう

つまり命を奪おうとまで思ってしまいました。

精神的に追い詰められていたこともあるでしょうが
ダウン症という状態で生んでしまった責任も
感じたためにそこまで思うことになってしまったんでしょう。

しかし苦難を乗り越えて生まれた子供を
手に掛けることはできずに
日々は過ぎていきました。

翔子さんのかわいい顔を見ていること事態が
憎らしくも思えるような
苦しみを味わい続けてきたのですが

旦那さんの
「ダウン症なんて関係ない。精一杯愛してやろう。」

という言葉に救われることになります。

知能がないままといわれた翔子さんは
他の子供と比べると遅いまでも

すこしづつ知能がつくことになり
医者の言葉が違っていたことに気づいて

さらにしっかり育てようと決意をすることになります。

翔子さんはダウン症の偏見もあったためか
幼稚園や保育園を断れ続けることになりますが

そんな彼女が他の子供達と触れ合えるようにと
書道の教室を開くことになり

その甲斐もあって友達と一緒に教室に通うわが子を
見ることが出来るようになりました。

障害がありながらも普通の小学校の入学を認められますが
しかしどうしても他の子供との成長の差というものが
でてしまい

さらには東京の小学校らしく
中学受験を控える子供達もたくさんいるために
保護者からも邪魔者扱いをされるようになっていきます。

書道ではいい感じに成長していった彼女も
受験でぴりぴりした学校では
居場所がありません。

矢口養護学校に進学することになり
普通のところで受け入れられない彼女とお母様は
書道の道を究めていくことを決断しました。

翔子さんが14歳のときには
心の支えであったお父様が心筋梗塞で
52歳で亡くなることになってしまいます。

14歳といっても成長の遅かった彼女は
父親の死を受け入れることは難しくて

お母様は胸に手を当てて
「胸の中に生きているんだよ」ということを継げて

それにより翔子さんは今でもお父様と
会話をしているといいますね。

お父様は実は亡くなる半年前に
書家の第一人者であり泰子さんの師匠である柳田泰山先生に対して

「女房を日本一の書家にしてください」という言葉を伝えていて
それを頼まれた柳田さんは
お母様に

「あなたを日本一にと頼まれたけれど、それは無理だから、翔子さんをダウン症で日本一の女流書家にしましょう」

こう伝えることになります。

そして翔子さんは柳田泰山先生に師事するようになり
上記で記載した輝かしい経歴を積み上げるまでに

なりました。

翔子さんとお母様は一緒に書道教室をしていて
知的障がい者の子供達なんかも
受け入れていますが

自分達が冷遇されたときの思いを
してほしくないといった思いもあるのでしょう。

彼女と家族の話はドラマ化されたりしていて
多くの人の涙を誘っています。

世の中の多くの人は自分の置かれた状況に悩むばかりで行動しないところがありますが
この家族の話を知ってしまったら
何かしたくてたまらなくなるでしょう。

そして、ダウン症になってしまった人を
へんな先入観で見ないようにしたいものです。

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